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ミオの星から 稲葉真弓 [詩作品]

昨日、本棚を整理していたら、雑誌『アンサンブル』がたくさん見つかった。
かつて小山内彰子さんという方が編集者であった頃、よく私も寄稿させていただいた雑
誌で、発行はカワイ音楽教育研究会である。懐かしく思って、ページをめくっていたら
1992年10月号の巻頭に稲葉真弓さんの詩が載っていた。
かつて手元にこれが届いたときの、この詩から受けた深い印象を忘れていない。
あれからもう20年以上経ち、稲葉さんもすでに他界されているが…。


  ミオの星から                稲葉真弓

なんども生まれかわる星がある

闇に光り 闇に消えて 

ある日 秋の町にとどくのだ

あたりにはぼうぼうと

赤い夕日が燃えていて

その一点に

ミオの光はともるのだ

私は書こう あなたに

生まれ変わるための

長い年月について

そこにとどくときのよろこびと

消えるときのおののきについて

何億年も残るのは 私の体を包んだ

もう一つの金色の光であったことを

   ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””” 

ふしぎな詩だと思う。心が遠いところへ連れ去られていく。
最近彼女のエッセイ集『少し湿った場所』を読み、彼女の生きた
この世での時間と場所に、少しだが触れることができた。
この詩はいま稲葉真弓さんご自身にこそ、ささげたいと思う。 
  
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小母たちの谷底そのむかし 日嘉まり子 [詩作品]

雨の降る昨夜、サボテンの花が開き、一年ぶりなので、懐中電灯をもって、何回も
バルコニーへのぞきに行った。小雨に濡れた妖しい白い花。直径10数センチある。
今日はもうしぼんだ花が雨に濡れている。
誰も見なくても、気付かれなくても、花はひとりでやるべきことをやっている…と変な
ことに感心する。

あの世の人たちも、この世で生き切れなかった自身の一日を、今も物語の続きのように、
この世のさまざまの形を借りて、私たちに見せようとしているのかもしれない。不透明で、
それ故に魅力に満ちたこの世界のありようを、巫女のように、語り続ける、日嘉まり子
さんの神話世界、想像力のこだまが行き交う語りの魅力に引き込まれている。
(6)から(9)までの小母たちの谷底の物語がこの号で展開されている。

 
   小母たちの谷底そのむかし(6)      揺蘭ーYOURANー2014より

                                     日嘉まり子

亡くなった叔母たちは、風が湿り気を帯び静かに尾を引く日などには女人の体を借りて
この世に現れることがある。
ある時は商店の軒先で、山菜や餅や油で揚げた沢蟹をたくましく商っているのだった。
通りすがりに聞こえてくる会話の中の、最も耳に残る言葉がこだまする時、我々はどの
ようなつながりがあったのかがようやく判明することがある。
先行きはどうなってゆくのかを自分に引きつけて占うと言うこともある。
「静子さん」などと言う共通の知り合いの名前がふっと口に上って、郷愁のような同名
の叔母の姿が、女人の中に匂い立つように現れることがあっても驚いてはいけない。
細長く美しい草の葉の影のような声の叔母の、短かった生涯が流れおちてゆく滝の果て
の先まで、誰かが見送って行かなければ,口惜しさを残して旅だった何人もの小母たち
は何度も姿を現さなければならないだろう。
蝶やカゲロウや虹や、鏡の中の私たちの姿をして。
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金色の午後のこと 稲葉真弓 [詩作品]

今日はほんとに文句ない五月晴れだ。バルコニーではノカンゾウのつぼみがいっせいに
膨らみ、鉢植えのエニシダの黄色がそよ風に揺れ、チャイブがピンクの花ばなを咲かせて
いる(いつか朝のオムレツに入れてみたいと思いながら、まだ試してはいないけれど)。
こんな日にこそふさわしい稲葉真弓さんの詩がある。


   金色の午後のこと
                         稲葉真弓


ほんとうに生きたのは
たった一日だったのかもしれない
人生は流星のようだ
ぽかんと口を開いていた午睡のときにも
ときは均一に流れていて
ああ なんてのんきだったんだろうと思っても
もう遅い あの幸福な午後
かといって午睡以外になにができただろう
半島の庭のスズメたちの優しいついばみに魅入る目が
いつしか眠りに誘われたからといって


浜尾さんちのクレソンが一気に伸びた朝も
ビニールハウスのなかにときは流れ
窓辺にメジロの素早い飛翔が見えた朝も
翼はときの重力を必死にかきまぜていたのだ


もういちど生まれなおして
ほんとうに生きることについて
生きた時間について
あるいはいま生きていることの喜びや
この目の豊かなスクリーンに映されているものを
ていねいに包み直して
だれかに差し出すことはできるだろうか
なにもかも忘れていく
宿命のような人生のなかで
「いま」という ひかりの一筋をうけとること
包み直すことは


ああ あの午睡もまた
ひとつの金色のひかりだったのだと
いまは少し分かる気がするのだが……
スズメと大地を照らしていた 薄いひかりの筋だって
少しは見える気がするのだけれど……
あの幸福について
だれかと話すため いまいちど
すべり台の下の午後へと降りて行こう

   
 ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

それぞれの人にとって、降りていきたい午後はどこに?
ひかりの薄い一筋でくるみ、この詩をだれかに送ってみたくなる。

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メノウー水の夢 稲葉真弓 [詩作品]

稲葉真弓さんの連作・志摩『ひかりへの旅』にはいくつも好きな詩がある。
読書会で最近読んだ『半島へ』の風景を思い出しながら、もう一度心の中で
岬への旅をした。

      メノウー水の夢
                         稲葉真弓


酸性の雨のふる 降り続ける惑星に生きて五十年
濡れそぼった日々の記憶に
一本の傘が揺らぐ


「わたしたちも いつか 溶けていくのかしら


そういった少女の声はもうどこにもない
残った一本の傘は 骨だけになって
小さな石のかたわらで眠っている


古い傘に寄り添うような
かわいらしい水色のメノウよ
水を求めて傘の下に
すがりつくようにして転がっている


だれも知らないのだ
その石の中に かつて太古の水が閉じ込められていたことを
白亜紀の湿った大地にも やっぱり酸性の雨がふっていたことを
金色の朝日を受けるとき
濡れた羊歯の葉裏が薄緑の刃のように光ったことを


なんどおまえと遊んだことか薄い水を揺らしたくて
閉ざされた水の色を確かめたくて
夜の電灯を消したりつけたり
耳もとで乱暴に振ってみたりもした
すると 石は鳴った かすかに
雨を吸う音さえ聞いた気がする


わたしは歩きたかった その雨のなかを恐竜や 翼竜の巨大な足で
石を踏む つめたい大地を感じたかった


やがて
お前の内側の水はひからびた
骨となった傘と一緒に
わたしの部屋の玄関は お墓みたいにしんとしている


ねえ おまえ 水色のメノウよ
恐竜と一緒に歩く昼や
遠い遠いふるさとの 何度もの滅びと新たな地層を
なきたいほどに恋うる夜がある
ーわたしのふるさと
水を閉じ込めたこの惑星の
降り続ける雨の下で

    ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

先日、みんなと賢治の「貝の火」を読んだ。貝の火にはオパールの美しさが、よく
描かれているという。堀 秀道著の『楽しい鉱物学』を読むと、以下のような解説
がある。

《昔、浅い海、または湖の底に貝が住んでいた。やがて水が退いて陸地と
なり、死んだ貝の上に砂が積もっていった。そして貝をふくむ地層は地面の下深く
沈んでいた。地表は乾燥して砂漠化したが、地下には豊かな水の層がある。
この熱い地下水により、貝は溶かされていく。水の中にすでにたくさん溶け込んでいた
珪酸分が自然のバランス作用で、貝の中に遊離され、もとは石灰質だった貝が珪酸
質の貝に生まれ替わった。その後の地殻変動でこの地層が再び地表に持ち上がってきた。
かつての砂は固まって砂岩となり、その中にオパールになった貝がはさまっている。

珪酸と水を取り入れてオパールになった二枚貝は、外観にはまだ生物だった面影を留めて
いるが、縁の欠けたところから内部をのぞきこむと、宝石の風景が見えてくる。》と。

本には巻貝の化石からできたオパールの写真が載っていて、ふしぎな美しさがある。
賢治は石が好きで鉱物マニアだといわれている。この解説を読むと、小さな鉱物のなかに
閉じ込められた宇宙時間の結晶をいまさらのように感じる。

稲葉さんの詩の中で、「わたしは歩きたかった その雨の中を/ 恐竜や翼竜の巨大な足で/ 石を踏む
つめたい大地を感じたかった  という連から、私は賢治の小岩井農場の《ユリア ペムペル
…わたくしの遠いともだちよ わたくしはずいぶんしばらくぶりで きみたちの巨きなまっ白な
すあしを見た》の連を思い浮かべた。

大地を踏む大きなすあしと、小さなメノウのなかで鳴る水を聞く耳のことを想った。


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少年 [詩作品]

送られてきた詩誌『アンドレ』10には詩のほかに、詩人論(黒部節子論6)、評論「詩とは何か」
「詩(私)的現代」などが載っていて、いずれも興味深く、一気に拝読しました。1998年創刊以後、
16年で、これが10号目である由、おめでとう!と申し上げたい気分です。これは宇佐美幸二さんの
個人誌です。私もこのところ一年に一冊くらいのペースで、同人詩『二兎』を出しています。特集のテーマによって、そのたびに未知の領域にいささかの冒険を試みることができ、自己啓発?できるのが、楽しみです。今、5号『象を撫でる』の編集中です。

さて『アンドレ』から、心ひかれた作品「少年」を載せたいと思います。

  少年
                         宇佐美幸二


気配がした
トンボが羽をたたんで
車のハッチバックドアの溝あたりに止まっていた
ハグロトンボらしい


ぼくを横目で見ているように静止している
なにか言いたいの?
警戒する様子も見せず
たしかにこちらを窺っているのだ
かまっている暇はないので ドアをあけたまま
人に会いに出かけた


もどってみるとトンボの姿はなかった
あれは誰だったのだろう?
もう十一月になろうとするこんな季節に
山近い ひっそりとしたこの地で誰が
ぼくに会いに来たのだろう


そういえば今日は雨が降ったあとの
どんよりとした空気は
この世の構図がすこしばかり歪んでしまったようだ


ぼくはきっと
どこかに置きざりにされているに違いない


時間もなにもないこの世界の
ちいさく鈴の鳴る底のほうで

”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
 さりげなく書かれているような、このある日の少年の見た風景。 ちいさなトン
 ボと 少年の間にきらめいた一瞬の時間。少年だからこそ抱きうる、はるかな
 時間へのあこがれが、消えていくトンボの上に投げかけられ、特別な一刻を
 きらめかしている。”この世の構図が少しばかり歪んでしまったような一刻”
 ひとり置きざりにされた…時間。でもそこはこの世から外れた音のない世界、
 ではなく、” ちいさく鈴の鳴るこの世界の底”だった。

 大人たちが失った、でも、いつかは聴いたことのある鈴の音が詩人の耳の底に
 は、残響のようにひびいている。

 もうひとつの詩作品「妖精の悲劇」にも この世界に同化しきれず、夢幻の中をさま
 よっているような異世界の存在とのふれあい方が描かれ、そのような「気配」として
 のものたちの近くにこそ、この詩人の詩的居場所が置かれていることに気づきます。
 現代に巻き込まれている人間としての、 こわばった自意識がゆるむと、自分も、か
 つてはたくさんのちいさな気配のただなかをさまよっていたたことに気が付きます。
 
 
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新川和江詩集『ブック・エンド』より [詩作品]

新川和江詩集『ブック・エンド』には、心惹かれる詩が多く、宇宙的な時の流れと、
その時間をつかのまよぎっていく生きものの時間との接点に、しばし立ち止まって
いる自分がいた。

    黒馬             新川和江
                                
ベッド・サイドに
あの黒馬が来ている
目をあけなくても
濡れたたてがみから滴るしずくが
額に冷たくかかるので
それとわかる


あの日
やわらかな草地に二人を降ろして
湿原にはいって行き
ついに戻って来なかった黒馬
湿原には谷地眼(やちまなこ)といって
ワタスゲやミズゴケに蔽われ
薄眼をあけて空を見上げているような沼が
其処此処にあり
夏季でも零度に近い水温が
底深く嵌ってしまった動植物を
生きたままの姿で永久に保存するという
とすれば黒馬の
濡れた睫毛のかげのあの眼球には
最後に映した二人の姿が
あの日のままに焼きつけられて いるのかも


消息も聞かなくなって久しいが
あのひとの眠りの中にも
馬は時折おとずれるのであろうか
北国のみじかい春
草地に坐って二人は何を語り合ったか
今はもう 昔詠んだラヴ・ロマンスか
映画の中の一齣のようにしか 思い出せない
眠りの中に
ふと現れることがある黒馬だけが
つややかに若い駿馬のままで

   
    ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 谷地眼のところは、原文はルビですが、( )にしてしまいすみません。

 眠りの中にふと現れる、つややかに若い駿馬…それこそ、時が詩人に再び与えてくれる
ひそかな贈り物かもしれない。人はだれでも、あるとき、つややかな駿馬を野に放ったこと
があるのだから。

 谷地眼という湿原の沼が”夏季でも零度に近い水温”で、”底深く嵌ってしまった動植物”
を”生きたままの姿で永久に保存する”という、沼と、黒馬の眼に沈む、時の結晶化、その
アレゴリーのたくみ。

 私の夢のかたわらにも、いつかそんな黒馬が来てくれるといい。来るならば、馬はやっぱり
黒馬でなければ…。

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廿楽順治詩集より [詩作品]

おもしろい詩を見つけました。
廿楽順治詩集『詩集人名』からの一篇を載せたいと思います。

              
             辰三(弟)    


そういえば辰三にはたしか弟がいた

蚊帳のなかで

あじの干物をつついているのをみた

うすい弟だから

みんなにはどうしても見えにくい

辰三のあとを

きいろい雨になって追いまわしていた

いつだったかおれも

遠足の帰りに降られたことがあるぜ

辰三が肺病でなくなったときだ

どこか南の方の外国へいっていたときいたが

いつ帰ってきたのか

弟は水の音になって酒屋の隅にいた

やっぱりまるまってあじの干物を食っていた

顔は暗くてみえない

辰三はいつも足のうすい弟をかばっていた

泣いて逃げて行くときの足音が

辰三そっくりであった

血はあらそえないな

あるとき

人を刺してあたりをどしゃ降りにした

それ以来

この町の夕日は

弟の足のようにうすくなってしまったのだ



      ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

この詩集は全編いろんな人名のひとが出てきて、半ば妖怪的、どこか自然現象的でもあり、
あるいは超時間的存在ともいえ、それでも彼らは、どこにもいそうな俗っぽさが
身上の人物たちだと思えてくる。そういう彼らの百鬼夜行ぶりに親しみを感じる。
自然と物質と人間の姿が重なり合い、入れ替わり合い、新しいこの世の表情を示すのは、
巧みなこの表現技術に拠っている。
一作一作、おもしろがりながら(ユーモアのこわさ!)読んでいくうちに、人間も自然のもたらす
一種の気配なんだと気が付き、ちょっと肩の荷が下りる気持ちにもなる。傑作だと思う。
(各行の脚を揃えることが必要なのですが、もしずれてしまっていたら、すみません!)

  

             
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ジャム煮えよ [詩作品]

久し振りに自分のブログを開けて見たら、夏の間すっかりご無沙汰していることに気が付いた。
やっとお彼岸過ぎて少し涼しくなりかけていますが、今度は台風襲来。このところ家の中の本の
山にお手上げになり、仕方なく毎日段ボールの箱に詰めては、廊下に積み上げている。
しばらく整理に忙殺されそうだ。

                 ””””””””””””””””””””””””””””””””””

 今日は坂多瑩子さんの詩集『ジャム煮えよ』(港の人発行)から好きな詩を一篇載せたいと思う。
こんなのりで、私も日常の手仕事をこなせたら、一刻一刻の時の質が変わってくれそうな気がするし、そうしたら”あたしがあたしでなくなる…”ときが垣間見えてくるかもしれない。
まずおもしろくて、リズムがよくて、幻想的次元に感覚の広がっていく詩集だ。
作品はほとんどどこにもあるような日常的な暮らしの場面で展開する。でも油断はならない。
足元が霧で、いつの間にか迷子になってしまうのだから。


       ジャム                    坂多瑩子


         ジャムをつくろうと

         りんごの皮をむいて

         大きなボールに

         うすい塩水をつくったが

         間の抜けた

         海の味がして あたりは

         ぼおっと霧がふかいから

         四つ割にして まだちょっと大きいから

         三等分にして 皮をくるくる

         もひとつ もひとつと 

         笊いっぱい

         くるくるまるまって

         皮のないりんごって

         案外ぼやっとしてるから

         赤い耳たてた兎が

         弁当箱のすみっこにいるのは

         とても正しいことのように思えて

         それでも早くジャムにしなくては

         半日ほど陰干し

         砂糖をまぜて三時間

         夜になってしまった

         りんごがりんごでなくなるとき

         あたしがあたしでなくなるとき

         ジャム煮えよ   

                
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岡野絵里子『陽の仕事』 [詩作品]

しばらくご無沙汰しているうちに、もう大晦日になりました。
今年のさいごなので、好きだった詩集『陽の仕事』のなかからの一篇を載せたいと思います。


   光について                               岡野絵里子


眠りの中で人は傾く

昼の光を静かにこぼすため

鮮やかな光景を地に返すために



その日 私は沢山の光を抱いた

駐車場に並んだ無数の窓 その

一枚ずつに溜まった陽の蜜

無人の座席に張られた蜘蛛の糸を

渡って行ったきらめくビーズ

それから

聖堂の扉から 歩み出てきた花婿と花嫁



籠一杯の花びらを

私たちは投げ上げた

喜びと苦しみの果ての声のように



薔薇のように束ねられて

高価な写真におさまる人々

私たちはどこから来たのか

囁く過去の影の中から

夜毎の孤独な夢の中から



それでも



朝の最初の光と共に 人は

あふれるように歩いて行く


    ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

新しい年を迎える前の夜に、あらためてこの詩を読み返す。ひとりひとり、どんな夢の
中を通り抜けていようとも、朝の光がさして来るたびに、あふれるように共に歩き出して
いけるといい…と思う。
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ツワブキ 村野美優 [詩作品]

パソコンが半月ばかり修理に出ていたので、ご無沙汰しました。私は「ひょうたん」という詩誌の同人ですが、10月に届いた48号のなかに、好きな詩がありましたのでご紹介します。


        ツワブキ            村野美優


グリースでつやつやにした

深みどりのグローブで

まいにち夏の陽射しと

キャッチボールしたから



 ツワブキは秋になると

 からだじゅうに漲る

 太陽光で発電し

 頸をのばして

 道端や丘の裾を

 照らしはじめる    




 この家の裏扉にも

 今年はじめて

 ツワブキの明かりが灯った

 しゃがんで顔を近づけると

 あまずっぱい

 夏の子どもの匂いがした



 やがて冬の風に

 明かりを吹き消されてしまうと

 キツネ色の毛皮の帽子をかぶって

 ツワブキは旅に出る

 風に乗り

 雨に乗り

 どこかべつの片隅へ

 また陽射しと

 キャッチボールするために 


      ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””” 


擬人法的な書き方で、ツワブキの生き生きした表情とありようが、クローズアップされてきて
やあ、ツワブキ君!と話しかけたくなりました。親しい仲間だったことに気が付いたみたいに。
第一連と最後の連とが呼び合っていて、最後まで読んでもう一度最初の連に戻った時、わ、
やられた!という気になりました。3連の”夏の子どもの匂いがした”もいいですね!

村野美優さんの詩には大地にしゃがんで(あるいは寝ころがって、)草や花々や虫たちと同じ
位置から、この世界を感じ取る子どもみたいなまっすぐな感性が感じられます。それが読み手
の心を解放してくれるのかもしれません。

私はこのところ、読書会で賢治の童話作品を読んでいるのですが、彼の物語を読んだ後などに
道端の木々や草花や電線や人々といっしょに私も、物語の続きのなかを歩いているような錯覚に陥りかけます。植物だったら異世界に移植された感じとでもいうのでしょうか。

作者のみずみずしい感性とその描写が、読み手を日常から引き抜いて異世界へ連れて行く
…というか、ほんとうの現実の明度に気づかせてくれるのかもしれません。この詩を読んで、
ふとこの賢治体験を思いました。
      
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