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新川和江詩集『ブック・エンド』より [詩作品]

新川和江詩集『ブック・エンド』には、心惹かれる詩が多く、宇宙的な時の流れと、
その時間をつかのまよぎっていく生きものの時間との接点に、しばし立ち止まって
いる自分がいた。

    黒馬             新川和江
                                
ベッド・サイドに
あの黒馬が来ている
目をあけなくても
濡れたたてがみから滴るしずくが
額に冷たくかかるので
それとわかる


あの日
やわらかな草地に二人を降ろして
湿原にはいって行き
ついに戻って来なかった黒馬
湿原には谷地眼(やちまなこ)といって
ワタスゲやミズゴケに蔽われ
薄眼をあけて空を見上げているような沼が
其処此処にあり
夏季でも零度に近い水温が
底深く嵌ってしまった動植物を
生きたままの姿で永久に保存するという
とすれば黒馬の
濡れた睫毛のかげのあの眼球には
最後に映した二人の姿が
あの日のままに焼きつけられて いるのかも


消息も聞かなくなって久しいが
あのひとの眠りの中にも
馬は時折おとずれるのであろうか
北国のみじかい春
草地に坐って二人は何を語り合ったか
今はもう 昔詠んだラヴ・ロマンスか
映画の中の一齣のようにしか 思い出せない
眠りの中に
ふと現れることがある黒馬だけが
つややかに若い駿馬のままで

   
    ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 谷地眼のところは、原文はルビですが、( )にしてしまいすみません。

 眠りの中にふと現れる、つややかに若い駿馬…それこそ、時が詩人に再び与えてくれる
ひそかな贈り物かもしれない。人はだれでも、あるとき、つややかな駿馬を野に放ったこと
があるのだから。

 谷地眼という湿原の沼が”夏季でも零度に近い水温”で、”底深く嵌ってしまった動植物”
を”生きたままの姿で永久に保存する”という、沼と、黒馬の眼に沈む、時の結晶化、その
アレゴリーのたくみ。

 私の夢のかたわらにも、いつかそんな黒馬が来てくれるといい。来るならば、馬はやっぱり
黒馬でなければ…。

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堀辰雄展 [日々のキルト]

昨日、堀辰雄展を見に、鎌倉文学館を訪ねた。没後60年を迎えたとのこと。
彼は昭和13年に鎌倉で結核療養し、翌年から一年ほど、鎌倉の小町で新婚生活を送り、
完成まで7年かけた「菜穂子」の構想も鎌倉の地で立てたという。

私もこのところ少し遠ざかっていたが、若いころは堀辰雄が好きでよく読んでいた。
肌に信州の風を感じるような、日本的湿潤さのない、澄んだ文体のもたらす雰囲気に惹かれていた。死の影が感じられるような、薄明の暗さを持つ「風立ちぬ」「菜穂子」なども好きだったが、
むしろ大和路の散策から生まれた「浄瑠璃寺の春」、それから最後の作品「雪の上の足跡」が
永く心に残っている。

特に馬酔木の花に出会うシーンは一読後、強く心に刻まれてしまい、何十年経った今も、
”馬酔木”の花を見たり、思い出したりすると、堀辰雄のこの文章を思い出すのは不思議だ。
春、”浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、ちょうど今を盛りと咲いていた一本の馬酔木”…。
馬酔木には、”あしび、と振り仮名がついていて、それまで私は”あせび”と呼んでいたので、
いっそう印象に残ったのかもしれない。
つづけて彼は、その門の奥に”この世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなもの”が目に入り、
足を止めると、それが浄瑠璃寺の塔の錆びついた九輪だった、と書いている。
かつて一人で訪れた九体寺への旅を思い出しながら、今度は馬酔木の咲くころにここを
訪れてみたいと、思った。

展覧会には神西清との文通はがきや、芥川龍之介や小林秀雄の原稿など、丁寧に展示されていて、あまり客のいない会場を出てから、「大和路・信濃路」「菜穂子」を売店で買って、庭の薔薇園
を見に行った。夏の名残の薔薇という感じが、展覧会の雰囲気とも合っていた。
紺碧の海を望み、庭園には椎の実(ブナの実?)が一面に散らばっていて、その2粒をお土産に
ポケットに入れて帰ってきた。

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廿楽順治詩集より [詩作品]

おもしろい詩を見つけました。
廿楽順治詩集『詩集人名』からの一篇を載せたいと思います。

              
             辰三(弟)    


そういえば辰三にはたしか弟がいた

蚊帳のなかで

あじの干物をつついているのをみた

うすい弟だから

みんなにはどうしても見えにくい

辰三のあとを

きいろい雨になって追いまわしていた

いつだったかおれも

遠足の帰りに降られたことがあるぜ

辰三が肺病でなくなったときだ

どこか南の方の外国へいっていたときいたが

いつ帰ってきたのか

弟は水の音になって酒屋の隅にいた

やっぱりまるまってあじの干物を食っていた

顔は暗くてみえない

辰三はいつも足のうすい弟をかばっていた

泣いて逃げて行くときの足音が

辰三そっくりであった

血はあらそえないな

あるとき

人を刺してあたりをどしゃ降りにした

それ以来

この町の夕日は

弟の足のようにうすくなってしまったのだ



      ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

この詩集は全編いろんな人名のひとが出てきて、半ば妖怪的、どこか自然現象的でもあり、
あるいは超時間的存在ともいえ、それでも彼らは、どこにもいそうな俗っぽさが
身上の人物たちだと思えてくる。そういう彼らの百鬼夜行ぶりに親しみを感じる。
自然と物質と人間の姿が重なり合い、入れ替わり合い、新しいこの世の表情を示すのは、
巧みなこの表現技術に拠っている。
一作一作、おもしろがりながら(ユーモアのこわさ!)読んでいくうちに、人間も自然のもたらす
一種の気配なんだと気が付き、ちょっと肩の荷が下りる気持ちにもなる。傑作だと思う。
(各行の脚を揃えることが必要なのですが、もしずれてしまっていたら、すみません!)

  

             
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