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「いっしょに暮らしている人 」(2) [詩作品]

この羽生槙子さんの詩集には、”いっしょに暮らしている人”についての詩が、このほかにもいくつか載っていますが、今日はちょっとまた違う味わいの作品を紹介してしまいます。
これは夢についての詩のようです。

                        旅芸人のはなし


              「わたしたちみんなで 家を捨てて
               旅に出ることになったの
               ピカソの絵の旅芸人のように
               サーカスをする人たちのように
               旅は海
               夕暮れ 海辺でわたしたちが地引き網を引くと
               魚ではなくて とりのからあげがあがってきた
               とても大きいからあげだった
               きたないような きれいなような
               けれど 地元の人たちが来て
               そんなおおげさなことをしてもらっては困る
               と言うから わたしたちはまた
               荷物をたたんで旅をしたの」
              夢のはなしを 朝 わたしは家族にしています
              そこから 波瀾万丈の暮らしがはじまった夢


              家を捨てて みんなで旅に出るはなし
              旅芸人になるはなし
              その先を わたしがもう覚えていないはなし
              だから だれも知らないはなし
              そこでわたしは何をし
              わたしの家族は何をしていたのだったでしょう
              わたしたちは 赤や青の服を着ていたようでした
              だれか上半身裸で だれかタンバリンを持ち
              地引き網は藻がからみ
              さびしくて サバサバして
              けれどお互い話したいことが次々あって歩き続けていた


                          ※



おもしろい詩ではありはませんか。その家族たちは(自分も含めて)今もどこかでその続きを暮らしている…そんな気がしてきませんか。私はこの詩の中で、2連目の「地引き網は藻がからみ」という1行が、この詩にリアリティを与えている気がします。詩の1行の力は不思議です。私は不思議な詩が好きです。                     
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「いっしょに暮らしている人」 [詩作品]

お彼岸の朝、TVで9.11のドキュメントと、それに続くイラク戦争の映像を見ていて、心がささくれ立ち、血が流れはじめる。もう、辛くて途中で消した。

その後、羽生槙子さんの「いっしょに暮らしている人」という詩集をまた読む。少し心が落ち着いて、頭上に晴れ間が見え、日差しがほのかにみえてくる。こんな風にして人びとは毎日暮らしている。ここに当たり前の生活があるのに、と。


                       平野

           庭では すすきの垂れた穂に
           のらねこの子ねこがあきずにとびついて
           あの人が娘家族のところに行くので
           わたしは
           ゆで栗とゆでぎんなんと梅干しと
           ぶどうを持っていってもらいます
           栗は人からいただいたもの
           ぎんなんはあの人が
           勤め先のいちょう並木から拾ってきたもの
           梅干しはわたしが漬けて干したもの
           ぶどうも人からいただいたもの
           木の実ばっかり
           秋ですから
           あの人はりすのおみやげみたいのを
           持っていってくれるでしょう
           大きい川が流れる土地を
           銀色の帯のような川を
           あの人は四つもわたっていくでしょう
           関東平野を横切るのでしょう
           あの人はあした
           孫娘の保育園の運動会を見に行くでしょう
           関東平野の秋の日ざしを見にいくのです
           子どもをそりにのせて走る
           競技にまじって走ったりするのかもしれません
           あの人は
           秋の木蔭のチラチラする光を
           頭からかぶりに行くのです
           遠い山々からの
           木枯らしの前ぶれみたいな
           風の中に立ちにも行くのでしょう
           あの人は 木の実のおみやげをいっぱい持って
           銀色の川を四つもわたり
           平野を横切り
           空の青に顔をひたしに
           秋の運動会に行くのでしょう


                      ※




 この語り口と、歩行するリズムの心地よさに、自分の呼吸をつけながら、想像力が共に旅をしていく。
長く暮らして老いを迎えつつある日々の夫婦の暮らしの中で、このようなナイーブなまなざしを持って、パートナーへの想い(生きることへのなつかしさそのものみたい)に、ある角度から光をあて、詩作品に取り入れることは、とても難しいことではないか。ナイーブに、気取りのない表現で。
 これは多分羽生槙子さんの「言葉」へのながい修練と、また生きることへの持続的な意識のあり方からのみ生まれたよき収穫なのだと思う。
 そして、これはまた女性であるからこそ書けた詩かもしれない。現代詩のなかで、家族や夫婦の関係についての、(人と人との関係についての)あるあたらしい表現意識ではないか。それは、当然詩人の生きてきた、ぬきさしならないありように負っているのだけれど。

次回、もう一篇魅力的な詩を引用させていただきたい。
   
               
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Fiddle-Faddle [日々のキルト]

 ペッパーランド同人の荒川みや子さんが、今度「Fiddle-Faddle」という個人誌を創刊された。小さくてお洒落な詩誌だ。すべて手づくり…印刷も装丁も。それを一冊づつこよりで綴じて、一枚の葉っぱがふわりと舞い降りてくるように届けられた。

 彼女はこれをとても楽しみながらつくったとのこと。ほんの数頁のかろやかな詩誌だが、荒川さんのながく暖めてきた大切な夢がやっと孵ったようだ。こよりを探すためだけでも、あちこち、街じゅうを歩き回ったのではないか。

 40部発行の「Fiddle-Faddle」。巻頭には彼女の詩一篇。頁をめくると、私の第一詩集「動物図鑑」についての評が書かれている。次号から私の仕事について、何回か連載してくださるとのこと。これは大変ありがたいことだ。 詩とは作者だけのものでなく、読者(評者)によって光を当てられることで、その意味もひろがるものであると実感する。

 こういう彼女の仕事で一番嬉しいのは、詩作品だけでなく、それが載っている場(詩誌全体)の隅々にまで、作者の歓びの気配が感じられること、そこからからだの声が響いてくることだ。

 「Fiddle-Faddle」とは、辞書でひくと、(ばかばかしいこと、とるにたりない些細なこと)という意味がある。こういう名づけ方も彼女らしい気がする。(FIDDLEはヴァイオリンのもう一つの呼称)

 数日前、発行を祝って、横浜の「カサ・デ・フジモリ」で一夜、スペインワインを飲みながら、彼女とあれこれ詩の話や、(とるにたりない些細な話)などを愉しんだ。久しぶりのスペイン料理もおいしくて、店の陽気な雰囲気や、一仕事を終えた彼女のリラックス度にも感染して、一夜の食事と会話を心から楽しんだ。
 
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はなを くんくんその他 [日々のキルト]

昨夜、絵本「はなを くんくん」の結構ながい紹介を入れてエントリーする直前に、なぜかすべて一瞬に消されてしまうという事故がありました。で、今日はもう「はなを くんくん」について書くのはやめますが、これは今ごろの季節にぴったりの絵本ですね。冬篭りしていたクマたちや、カタツムリや、リスや,野ネズミたちが、みんなみんな、森でいっせいに目を覚まして,はなを くんくん!みんないっせいに駆け出して、さて彼らの鼻が嗅ぎ当てたのは何?全篇灰色の頁に、最後に天から落ちてきた一滴の光の精のようなもの!今年は暖冬だったのでかえってこの春の歓びは薄いかな…と思っていたら、このところ急に冬の嵐。うっかり冬篭りの穴から出たら大変ですね。用心、ご用心。

                              ※

今日は以前から見たかった映画「カモメ食堂」をやっと見ることができた。すぐ近くの館で上映してくれたので。小林聡美も好きな役者だし、もたいまさこの味がまたユニークで、フィンランドの澄んだ空気と、なによりその食堂のたたずまい。(ふと、吉田篤弘の「つむじ風食堂」を連想した。全然ちがうタイプだけど)。またムーミンの話もなつかしく…。そしてなによりあのおいしそうなコーヒーの匂いがしてきて、すぐにもあんなコーヒーを飲みたくなり、タクシーを拾って家に飛んで帰って、豆をひいて、下手なりにコーヒーを自分で淹れて、やっとくつろいだ次第。こういうお話はまさに地上数十センチのファンタジーですね。
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百合の芽 [日々のキルト]

 鉢植えの三つの百合の芽が、昨日から今日にかけて、3本とも 地中からとつぜん顔をのぞかせた。確か中国のどこかのお寺の鬼百合の子孫だったと思う。去年、九州の日嘉まり子さんが送ってくださったむかごを鉢に埋めたものだ。去年は10センチくらい伸びたままで変化無く、どうしたのかなあ…と気になったが、冬にはすっかり地中に消えてしまった。今年も春になってやっとそれがよみがえってくれたので、どうなるか楽しみだ。
 この2,3日家の中の鉢植えのマダガスカル・ジャスミンも急速につるを伸ばし始めた。なんと光に敏感な植物たち!
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ねずみ女房(2) [絵本の頁]

 ねずみ女房の続きを書きます。矢川澄子がこの本について、堂々たる姦通賛歌と書いたことを、清水真砂子は(その言葉を否定するつもりはありません。それどころか言い得て妙と、ひざを打った)とまず書いている。そして、(「これ以上何がほしいというんだな?」と問う夫たちに妻たちは答えられないまま、でも何かが足りないと感じているだろう。…現在の暮らしを捨てようというのではない。そうではないが、遠い遠い空の星が見たい…。はるかなものが…)と彼女たちは思っている。 これは日本にこの本が紹介されて30年が経とうとしている現在も、おそらく多くの女たちが抱えている思いに違いない…。)と。
 
 (ねずみ女房は夫に、これ以上何を?と問われたときも、答えられなかったが、別に恋がしたいと思っていたわけではない)。そして辛い思いで鳩を逃してやったとき(なぜ、めすねずみは鳩の背に乗っていっしょに飛びたたなかったのか?)と。けれど、もし作者がそんな風な結論にしていたら、この作品はつまらない通俗小説で終わっていただろう。彼女は鳩を逃す時点で、もう飛びたつ必要の無い一種の高みに達していたからだ)という。(男と女の問題がここでは主題でななく、作者はもっと遠くをこのねずみに見させている。めすねずみは日々を丁寧に生きながら、一方で、その目は遠くを見ていた、はるかなものへの憧れを決して手放すことはなかった。だから好きだった鳩を逃がしてやり、その深い喪失の悲しみの果てに、遠くの星を自らの目で見ることができたのだ、と書いている。物語のおしまいの言葉は「おばあさんは、見かけは、ひいひいまごたちとおなじでした。でも、どこか、ちょっとかわっていました。ほかのねずみたちの知らないことを知っているからだと、わたしは思います」となっている。

 清水真砂子は(ただ憧れを手放さなかった人だけがのぞき見ることのできた世界。そういう人だけが手にすることのできる落ち着き、あるいは静謐を、この年老いたねずみ女房の上に見ています。そして…私たちのすぐそばにもひょっとして『ねずみ女房』はいるのではないでしょうか。)と。

 一見どこにでもいるような見かけはふつうの人々。でもその内面からにじみ出る静かな輝きについて、その内部に刻まれたかけがえないドラマについてふと考えてしまう物語です。そして経験を言葉にするということの意味についても、人が生きるとはどういうことかについても、あらためて考えます。そしてまた書評のよみかた、そのおもしろさについても。
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