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アパップのモーツアルト [日々のキルト]

先日紀尾井ホールにモーツアルトの曲を聴きにいく。クラリネット協奏曲とヴァイオリン協奏曲三番がメインのコンサートだった。クラリネットの演奏では、特に第二楽章のピアニッシモの音色の繊細な美しさに引き込まれうっとりしてしまった。
ヴァイオリン演奏はジル・アパップ(Gilles Apap)。1963年アルジェリア生まれのフランス人。今はカリフォルニア在住とのこと。即興の妙技と演出満載の演奏で人を驚かせるといわれるが、ほんとうにダイナミックな舞台演出には驚く。特に第三楽章のカデンツァは型破りで、口笛とうたで入り…つづいてコサックのダンス曲みたいなたのしげなメロディーやリズムが飛び出し、次々と変化しながら、延々10分以上もとどまるところを知らない。初めは唖然、次に俄然たのしくなり客席はみな固唾を呑んで聴き入るばかり。演奏スタイルも変わっていて、楽団の背後はもちろん、その間を通り抜け、一人ずつに目配せ?しているような感じ。

もちろん演奏はすばらしく、その華やかなきらめきのある響きは心を吸い寄せる。バイオリン協奏曲三番は私の一番好きな曲だが、このような音色で聴いたのははじめてかもしれない。きっと彼は音楽の精を自分のなかに住まわせているのだ。音楽のせまいジャンルの枠をこえ、さまざまな民族や風土を横断して風のように行き来できる自在な音楽への精神を育てているひとなのだ。モーツアルトもこれをどこかで聴いて大喜びしているだろうなあ…などと思った。

国民文化祭 [日々のキルト]

今年度の国民文化祭〈山口市主催)の現代詩部門の選考をすることになり、今日、山口から詩の原稿がどさっと届いた。これからたくさんの作品を読んでいくわけだけれど、とりあえず今日は小学校の部にざっと目を通した。大変だけど、読んでいくうちに、元気が出てくる。子どもたちの飛び跳ねるような生命感が伝わってくるのだ。それに子どもたちがどんなに家族の人間関係を軸にして生きているか、ひとりひとりの家族を、どんなにクローズアップさせて見つめているかが感じられて、なんだか嬉しくもなる。

逆に言えば家族というものが子どもたちに対してもつ意味が、一切の理屈ぬきに分かってしまった感じでもある。妹、弟、おばあちゃん、おじいちゃん、お父さん、お母さんたちが、それぞれの顔で、親しく登場しては、詩のテーマとなっている。これから中学生、さらに高校生と一般の部まで300篇近い作品を読むことになるけれど、それは私にとって、とてもすてきな体験をもらうことになりそうだ。
また書きたい、このことについて。

To a Lost Whale [詩作品]

先日ハーバード大のCranstonさんからメールが入り、来学期のゼミで私の書いたクジラの詩を紹介したいとのこと。クランストンさんとは、10数年前に、私がケンブリッヂにしばらく滞在していた頃にお目にかかったのだが、それ以来ずっと私の詩の訳をしてくださっている。彼は日本文学〈和歌の翻訳と研究が中心)の教授であり、詩人である。「A Waka Anthology 1」によって日米友好基金日本文学翻訳賞を受賞している。

この詩は漂着死したクジラのイメージからのもので、1990年発表。いまさらちょっと恥ずかしいが、詩集には入れていないので,これを機会に訳詩と並べて紹介したい。

           
               To a Lost Whale 喪われたクジラへ                                               by Mizuno Ruriko ( translated by Edwin A .Cranston)


Sometimes I wonder Aren't you out there even now floating your sick body on the waves pouring out your life in a song of love sung on and on?
 
 ときどき私は思う
 あなたは 今でもまだ
 病んだからだを 波に乗せ
 けんめいに 愛の歌を
 うたいつづけているのではないかと


O whale -- what crippled your sense of direction? For all the world as if you feared to drown   taht day you fled the sea toward us (and I --it was then I met you......) 
 

 クジラよ
 あなたの方向感覚を狂わせたのは何?
 まるで溺死を怖れるかのように あの日
 あなたは海を逃れてやってきた
    (そして私はあなたと出会った……)
I love you Enameled as you were with stardust of the sea with barnacles and shells you fell away alone enormous from the dark I love the bigness that is you Listen −− when I pressed my ear to your wet skin I felt for the first time -- oh, yes -- with my own touch the briny beating of the universe between the dazzle of the sky and sand
 
私はあなたが好きだ
 海の星屑の 貝やフジツボにいろどられて
 闇からはぐれおちてきた
 あなたという大きさが好きだ
 ぬれたあなたの肌に耳を押しあてて 私ははじめて
 塩からい宇宙の鼓動に触れたのだもの
 まぶしい空と砂のあいだで


(Maybe, eons ago, I shared with you, aquatic ape that I was, the frothy atmospehre of milk churned up by blustering storms. Foster brother and sister, perhaps we fed at the same breast. A fragment of green forest sunken in your brain, the shadow of a waving polyp etched in gray on my retina.......But our lives have been classified , and in the end our souls no doubt will vanish like two separate drops of blood drying on the sand. Without ever combining into one.)
  
  ( もしかして水生のサルである私は吹きすさ
    ぶ風に攪拌されて泡立った大気のミルクを太
    古のあなたと分けあったのだ 乳兄妹として。
    あなたの脳髄のすみには緑の森が沈んでいて
    私の網膜には灰色の珊瑚虫の影がゆれている。
    でも私たちの命は分類されて やがて魂は砂の
    上の二滴の血のように蒸発するのだろう。
    決して融合することのないままに。)


Yet the day will come O whale when between our two bleached skulls sea spume driven by the wind will blow again and then we shall return you and I to the one song sung on this great earth
O whale far away
 
けれどクジラよ  いつか
 白くさらされた二つの頭骨の間を
 あの風のしぶきがまた吹きぬけていくとき
 私たちはこの大地の上で
 ただ一つの歌にもどれるだろうね
 遠いクジラよ
                     
 







                     

ヘイデン・カルース(�) [言葉のレンズ]

カルースの作品には動物がたくさん出てくる。アビ〈鳥)の詩を読んだ。最後の連のアビの鳴き声の描写の強烈さ。いまの私にはこわいほど共感できる。私はカラスの声にいまそれを感じている。

                      フォレスター湖のアビ

                   
                 夏の原野……青みがかった光が
                 木や水にきらめいている。しかしその原野も
                 いまは消滅しかけているのだ。「おや?
                 あれはなんの鳴き声だろう」。すると
                 あの狂気の歌、あの震える調べが
                 ランプのなかの魔法使いの声のように 聞こえてきた。
                 人生の遠い原野のなかから聞こえてきた。

                    
                 アビの声だった。そしてそのアビが
                 湖を泳いでいるではないか。岸辺にある
                 メス鳥の巣を見張り、
                 潜り、信じられないくらい長い時間
                 潜りつづけ、そしてだれも見ていない水面に
                 姿を現した。友人があるとき
                 子供のころの話をしてくれたが、
                 アビがボートのしたを潜りつづけて
                 静かな神秘的な水中の世界に
                 黒ぐろと力強い姿を見せ、それから
                 背後にふんわり
                 白い糞を発したという。「すばらしかったよ」
                 とかれは言った。


                 アビは
                 二度三度湖面の静寂を
                 破った。
                 鳴き声で……まさに名残の鳴き声で……
                 原野を
                 破った。その鳥の笑い声は
                 初めはすべての陽気さを超え、
                 それからすべての悲しみを超え、
                 最後にすべての理解を超え
                 このうえなく微かな震える永遠の嘆きとなって
                 消えていった。その声こそぼくには
                 真実で唯一の正気に思えた。


もう一つ別の詩の一部分を引用します。
            

                   
             ……この歳月は動物を消滅させる歳月だった。
             動物は去っていく……その毛皮も、そのきらきらした眼も、
              その声も
             去っていく。シカはけたたましいスノーモービルに追い立てられ
             ぴょんぴょん跳ねて、最後の生存のそとへ
             跳んで消える。タカは荒らされた巣のうえを
             二度三度旋回してから星の世界へ飛んでいく。
             ぼくはかれらと五十年いっしょに暮らしてきた。
             人類はかれらと五千万年いっしょに暮らしてきた。
             いまかれらは去っていく。もう去ってしまった、と言っていい。
             動物たちには人間を責める能力があるかどうかは知らない。
             しかし人間にサヨナラを言う気がないことは確かだ。

                                   「随想より」後半部分

以上の2篇は『兄弟よ、きみたちすべてを愛した』より抜粋。
 
               
                                      


         
                     
                      

ヘイデン・カルースの詩 [言葉のレンズ]

急に猛暑になってぐったり。夜、八木幹夫さんに拝借したヘイデン・カルース(1921年アメリカ・コネティカット州生れ)の詩集「雪と岩から、混沌から」(沢崎順之助訳)を読む。氷点下の厳しい寒さのつづくヴァーモント州北部の冬から生まれてきたというこれらの詩は、自然のただなかを生きる生活者のきびしい精神と張り詰めた美しさを感じさせ、この程度の熱帯夜にげんなりした私の気持ちを洗い直してくれた。鉱物のようなかっきりとした手触りをもつ彼の作品を紹介したい。まず一篇目を。


                            夜の雌牛


                      今夜の月は満杯の盃のようだった。
                      重たくて、暗くなるとすぐ
                      靄のなかに沈んだ。あとに


                      かすかな星が光り、道ばたの
                      ミルクウィードの銀色の葉が
                      車の前方に輝くだけだった。

                     
                      それでも夏のヴァーモントでは
                      夜のドライブがしたくなる。
                      山奥の闇のような靄のなか、


                      褐色の道路を走っていくと
                      まわりに農場が静かに広がる。
                      やがてヤナギの並木が途切れて、


                      そこに雌牛の群れが見えた。
                      いま思い出してもどきっとするが、
                      闇のなか間近で深々と呼吸していた。


                      車を停め、懐中電灯をつけて
                      牧場の柵まで行くと、雌牛は
                      寝そべったまま顔を向けた。


                      闇のなかで悲しい美しい顔をしていた。
                      数えると——四十頭ばかりが
                      牧場のあちこちにいて、いっせいに

                      
                      顔を向けた。それは遠い昔の
                      無垢だった娘たちのように
                      悲しくて、美しかった。そして


                      無垢だったから、悲しかった。
                      悲しかったから、美しかった。
                      ぼくは懐中電灯を消したが、


                      そこを離れる気はしなかった。
                      といってそこでなにをするのか
                      分からなかった。その大きな


                      闇のなかで、はたしてなにが、
                      ぼくになにが、分かっただろう。
                      柵に立ちつくすうちに、やがて


                      音もなく雨が降りはじめた。 
   

 

                       

                        

一枚の絵の言葉 [言葉のレンズ]

《政治的な作家、あるいは政治的な芸術家とは、作品中になにか政治的なことがらを登場させる作家ないし芸術家である……こういう平板な見方にはぼくはいつも逆らってきた。だったらたとえばゴッホの「ひまわり」の絵はどんな意義をもっていたかと自問してみればいい。平板な芸術観からすれば、あれは「社会的視点には関連しない」絵と言われるだろう。ひまわりの花以外、なにも描かれていないんだからね。だがしかし、ゴッホの「ひまわり」がヨーロッパで引き起こした意識変革の事実は、おそらくベトナム反戦プラカードの全部を集めたものより大きかったと思われる。一枚の絵によって広汎なひとびとの意識が変えられてしまうなんてことを、平板な頭脳の持ち主にはわかりっこない。ヴァン・ゴッホがもたらしたのは、見る力の新生だった。美とはなにかの新しい概念、そしてその帰結としての新しい意識内容、新しい意識フォルムを,ゴッホはもたらしたんだ。》

以上はミヒャエル・エンデの『ファンタジー/文化/政治』からの言葉だが、ずっと以前、対談集『オリーヴの森で語り合う』で出会ったときから強く印象に刻まれている。

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