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ヨコハマメリー [日々のキルト]

見たい見たいと思っていた映画「ヨコハマメリー」を昨日やっと見ることができた。ようやっと映画館も空いてきている。映画を見るってほんとに気持ちの余裕が必要だ(少なくとも私の場合)。

私もメリーさんとは2、3回伊勢佐木町やJRのなかですれ違ったことがある。そのたび白昼夢を見ているような不思議な気分になった。松坂屋デパート、馬車道、伊勢佐木の通り。そこに重なるように占領下の、今はない根岸家の情景の再現。猥雑で活気に満ちた街頭の人々のかもし出す熱気。
そして一度だけきいたことのある永登元次郎さんの熱唱する「マイウェイ」には涙が滲む。今はその彼もメリーさんもいなくなってしまった街。最後のシーンで松坂屋の前を忙しげに歩くひとびとの間を幻のように過ぎていくメリーさんの姿は妖精のようで、悲しい。戦後から街娼として、年老いても街に立ち続けたメリーさん。忘れることのできない時代の証人である。それにしても年老いた彼女の素顔の凛とした美しさに驚く。あれは一体どういうことか。プライドを貫いたひとりの女性はあまりに寡黙だった。

やがてメリーさんも都市の伝説として語り継がれることになるだろう。無数の顔のないひとびとのシンボルとして。私たちはいまその伝説の生々しい息吹に触れているのだ。

多くのドラマを孕んだヨコハマという庶民の街。あらためてその懐の広い活力を感じる。私はたかだか20年ほどしか住んでいないけれど、居住者にとっても、横浜は日常と非日常の二重性を抱えた魅力ある街だ。

帰りに映画館の売店でサウンドトラック「伊勢佐木町ブルース]のCDを買う。

列車に乗った男 [日々のキルト]

パトリス・ル・コントの《列車に乗った男》をようやく見た。公開されたとき、というより新聞の予告で見たときから、ぜひ見ようと思いつつ、見そびれていた作品。

二人の孤独な男の、偶然の出会いからわずか3日間の短いふれあいと心の交流。会話が主体の静かな、むしろ地味な映画だが、見終わって、深いみどりの水面からゆらゆらと小石が沈んでいく…どこまでもその小石のゆくえを見ていたくなるような印象の切ない映画。あれはシューベルトの曲?。初老の一人暮らしの男の弾くピアノの音色が響く古い館、そこで男二人の交わす途切れがちだが味のある会話、朗読されるアラゴン?の詩の美しさ。互いにもうひとつの人生への夢を抱きながら、それぞれの運命を果たしにむかう二人の姿、(この辺はハラハラドキドキ)。そしてラストの、余韻を残す幻のような美しいシーン。生きる哀しみ。寡黙なロマンティシズム。ああ、やっぱりフランス映画はいいなあと思う。翳のあるジョニー・アリディと孤独で飄逸なジャン・ロシュフォールが引き立てあって魅力的。

ただ私は、始まりの10分ばかりを歯医者さんの予約でやむを得ず見逃したのが残念。映画は始まりがやっぱり大切。始まりの部分をちゃんと見なかったら最後のシーンが生きてくれない。もう一度はじめから見たい!どなたかこの映画を見た方がいらしたら感想を伺いたいなあ…と思う。映画も行為やモットーだけではなく、どうしようもなく生きている、ヒトの内面を描ける筈だ。

詩集『CARDS』より [言葉のレンズ]

國峰照子さんの詩集『CARDS』は粋な詩集だ。造本、装丁、内容がぴったり、息が合っている。

                ヒカゲトンボ
                                      

              青い風のまなざし
              青い椅子の聞き耳
              青い果物皿の欠けたふち


              時が自習する
              破線の行く手に
              かげろう
              青の末裔


              きのう 見たでしょ
              いいえ 見ませんでした

              
              二十世紀に絶滅した 
              青いシラブル
              帽子のひさしに止って
              すぐ落ちた


巧みな詩。詩が完璧な壷のように自己完結していて、誇り高い?詩だなあと思う。「私は私でいいのです」という感じ。詩でなければ書けない詩。余分なことを、あえていうと、口に出せない哀しみがあって…。「昨日見たでしょ?」ときかれても、「いいえ 見ませんよ…」とさりげなく答えてしまうダンディズム。

もう一つ引用させていただく。このユーモアがいい。これもプライドのあるうさぎ一匹。会ってみたい。


                 ナキウサギ


              氷河の爪痕
              標高ニ千米の岩場で
              春風に酔いをさます
              ナキウサギは
              優雅な耳の先を
              古里の床屋で
              さっぱりと
              切り落としてきた
              かわりもの
              秋口にはせっせと
              葉っぱを集め
              乾し草をつくり
              冬は
              やわらかい記憶のわら床で
              花の蜜のおいしい
              春を待つ
              季節は裏切らない
              ともだち
              耳が丸い理由など
              どうでもいい         

『日本語で読むお経』をよむ [日々のキルト]

 昨日、たこぶね読書会で、八木幹夫さんを講師に招いて、ご自身の訳された『日本語で読むお経』についてのお話を伺った。お経の魅力をはじめ、この訳にあたってのご苦労、日本の言語表現に及ぼしたお経の影響なども。西脇順三郎や宮澤賢治の詩にもおよび、興味津々、よい刺激を受けた。それ以上に講師である八木さんの飾らない直接の体験談は話の内容に親しみを感じさせ、質問も多く、時間が足りないくらいだった。キリスト教、イスラム教、仏教との関わりや、比較なども話題にのぼり、これからの世界に仏教的な文化の役割が大きいのではという意見が多かった。学生時代にウルドゥー語を学ばれたという斉藤さんのお話もおもしろく、原始仏教の勉強を現在つづけている小山田さんなどもおられて、「宗教」的なるもののもつ裾野の広さを思った。

 二次会は中華街の均昌閣で。紹興酒などのみながら、話題がさらに広がり、笑い声とともに、変化に富んだ一日を終えた。

『仏像のひみつ』はおもしろい [日々のキルト]

美術史の山本勉氏(現在清泉女子大学教授)による『仏像のひみつ』はとても興味深い一冊だった。いままでそれなりに多くの寺社や展覧会などで仏像を拝観する機会はあったが、このように分かりやすく仏像の種類やつくり方、その歴史について説明された本と出会ったのは初めてのことだ。これは私のような浅学者や初心者、若者、子どもたちにほんとに役に立つ啓蒙書であると感じ入った。

なかみをいえば、全部イラストつきで、漢字や専門用語が少なく、それだけでも読みやすく風通しのよい窓がひとつあいたような気がする。項目の(ひみつ その1ー仏像たちにもソシキがある)では如来、大日如来、菩薩その他のそれぞれのキャラクターの解説があり、(ひみつ その2ー仏像にもやわらかいのとカタイのがある)では、仏像の素材や造られ方がイラストによって具体的に語られている。(ひみつ その3ー仏像もやせたり太ったりする)では仏像を輪切りにしたとして、そのときの形が時代によってまるくなったり、楕円形になったり、またそのお姿もやせたりふとったりするのが、シルエットでくっきり示されている。(秘密その4ー仏像の中には何かがある)では仏像に魂を入れることについて、その内臓品のことなど。…というようにそれぞれ口語的な語り口での説明がある。
いままで彼方にあって拝んでいる対象だった仏様たちが、急に親しみやすく身近なものに思えるのは、こうした表現上のご苦労があったおかげと思いつつ、一般向けにこのような解説書が出たことは多分画期的なことだと思った。

山本氏は以前上野の博物館に勤務中、教育普及室長をしておられ、その折に「仏像のひみつ」という展覧会を企画された由。そのときの経験からこの本が生まれた経緯があとがきに記されている。

(解説の文章で意識したことは、できる限りテクニカルタームを使わないことです。初心者向けの仏像解説の多くは、テクニカルタームの解説ばかりに汲々として、読者に多くの用語を覚えることをなかば強制しています。……むつかしい漢字の多い専門用語はそれじたい一般の人を拒絶しているでしょう。それを極力排除しようとしたのです。たとえば、如来の髪の毛はパンチパーマ状の巻き毛であることを語るだけにして、それを指す「螺髪(らほつ)」という専門用語を紹介することはしませんでした。)以上は山本氏の言葉。

初心者たちや、一般の若者たち、そして子どもたちにとっても、これは入門の書としてとても役立つ一冊だと思う。このような風通しのよい文体の仏像解説書が生まれたことをご紹介します。

『仏像のひみつ』山本勉著 ( イラスト 川口澄子)朝日出版社  1400円

五十センチの神様 [言葉のレンズ]

              五十センチの神様      田中美千代                                                                    


              見て、
              ほら、あそこ


            Mさんが指さした大きな樹の幹には
            建物に反射した夕日が
            幅五十センチほどの
            光の帯をつくっていた


              照り返しの陽があたっている幹のところには
              神様がいるんですって


            夕暮れの中で
            そこだけほのかにオレンジ色に
            染まっていた


            ひと目を避けて
            光の屈折したところに
            ひっそり住んでいる五十センチの神様は
            永遠に会えないけれど
            本物のような気がする

                          
         


 田中美千代さんの詩集『風の外から押されて』の巻頭に置かれたこの詩には、なんとなくうなずいてしまうものがある。南向きの窓の多い部屋にいると、太陽が東から西へ移動するにつれて、光が室内の隅々を照らしながら西から東へと細やかに移動していくのに気がつく。どんな隅々の小さな部分も忘れずに満遍なく…という照らし方で、ああ、お日様の光って平等だなあ、なんて変な感心の仕方をする。
 光のあたる部分に、そのたびちいさな神様の姿がふと見える…というのは素朴な民話のような感触だが、なぜか説得力があっていい詩だと思った。私の小さな住まいにも、ちいさなカミサマがほのかに出没しておられるのかもしれない。


  
 

H氏賞 [日々のキルト]

昨日現代詩人会主催の日本の詩祭で、56回H氏賞の「パルナッソスへの旅」(相沢正一郎詩集)の紹介スピーチをした。盛会だったし、いい感じの会で、私も責任を終えて今日はちょっとした解放感。
相沢さんの詩集については、時間と記憶、想像力の働きなどをキイワードとして、私なりの読み方をしてみたが、この詩集は読み手にとってさまざまな受け止め方ができるのが、また魅力のひとつだと思う。
「詩学」の6月号にも解説を書かせていただいたので、読んでいただけると嬉しい。

バルコニーでは、今日もノカンゾウの花盛り、今、40いくつものオレンジ色の花がさわやかな風に揺れている。モーツアルトの喜遊曲を聴きながら、心を風にまかせている今日のひととき。

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