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擬人法 [日々のキルト]

しばらくブログにご無沙汰しているうちに、もう今年も余すところ一日になってしまった。
先日、中上哲夫さんなどに誘われ野毛での忘年会に参加した。5人でおいしい焼き鳥をたくさん食べ、詩の話などをたくさんした。帰ってくると、さあ詩を書くぞ!という気になったから、きっとおもしろい会だったのだ。来年にこの気持ちがつづくと、いうことはないのだが。
中上さんは、そのときも一緒だった淵上熊太郎さんと二人で季刊「電話ボックス」という詩誌(紙)を出している。一枚の紙の裏表に二人の作品が載っているだけなので気軽に手にして読めるのがいい。ユニークでしゃれた試みだと思っている。今日はその6号から、私の好きな一篇を挙げてみたい。
 
                       擬人法               中上哲夫

                
              真夜中のドアの向こう側に
              立ち枯れの木のように立っていたきみが
              いきなりケージを突き出したのだった
              台所のテーブルの上の
              砂の詰まったケージをながめているうちに
              わたしは忽然と悟った
              きみが遠くに旅立ったことを。
              砂の上のちいさな足跡と
              食べ散らかした向日葵の種たち
              昼間砂のなかにもぐっていて
              夜間歩きまわる砂色の生きものよ
              時代遅れの技法だなんていうひともいるけれど
              わたしが好きなロバート・ブライが好きな
              擬人法が好きさ
              深夜台所から寝室までフローリングの床を這って
                やってくる声たち
              …死にたかったわけではない
              …だけど死なないわけにはいかなかったのだ


ふしぎで、ちょっと不可解なところがある…のに、というかそれだからこそ、一読気持ちをつかまれてしまった。こういう詩はなかなか書けない。ある人が中上さんはノンフィクションをフィクション化してしまう詩人だ…といったが、現実をこのように異化できるのは、技術というよりも、固有の感性としか思えない。したがって、こればかりは習うことのできない領域かもしれない。

シンシア [日々のキルト]

                      シンシアとジョン 

しばらくぶりにこのブログを開ける。その間締め切りだの雑用だのに追われて、寒い冬の味をあじわう?ひまもなくて残念だった。
 一昨日、シアトルからシンシアと彼女のパートナーのジョン、それからジョンの娘のアリックスが来日。会食する。シンシアは前にも書いたが、ワシントン大学で日本の仏教美術を教えている。ジョンは現在は出版の仕事をしていて、本作りが大好きな人。浮世絵に造詣が深い。(私は浮世絵について、いろいろ教わることができたくらい)。アリックスは17歳だが、もう大学2年生。目下写真と陶芸に打ち込んでいる由。
シンシア自身は大学のtenureにうまく合格して、一生のキャリアを保証されたばかり。だからhappyそのものの表情。それにしても旅行中も、毎朝6時半から、ホテルのスターバックスで3時間はひとりで勉強や講義の支度をしているという、その精進振りには驚かされる。いつでも仕事を最優先にがんばって生きている彼女らしい。でももちろん昼間は3人仲良く見物にいそしんでいるらしい。昨日は歌舞伎座と三井記念館(陶磁器や書など)、浅草などをめぐり、今日は上野の博物館と、日本が初めてのアリックスのために竹下通りへ見物にいくとか。アリックスもこれから日本語を勉強したい由。
 この寒さのなかコートもなしでさっそうと?歩き回っている彼らを見て、「うう、寒い!」などと風に首を縮めている私は、これにもあきれるのみ。そういうと「マサチューセッツはこの寒さなんか問題じゃないほど…」と軽くいなされてしまうのだが。アリックスはマサチューセッツから飛んで来た。
 会食したのは、桜木町の「月の蔵」という和風レストランだった。彼らは陶器のお皿や酒器が気に入り、ためつすがめつ眺めて愉しんでいた。アリックスは高校から飛び級で、大学へ入ったのだが早く陶芸に打ち込みたくて、そのうち中退して日本へ修行に来たいともいっている。
 日本になれている私たちの目に入らない美しさが彼らには見えるのかもしれない。なにしろジョンときたら、浮世絵を通して?現代の日本のあちこちに、私たちの目には入らないような細部の美や気配を新しく発見しているのだ。私たちもときには旅人の目になれるといいのだが、日常の文脈の外へ出ることはほんとに困難だ。
 来年はぜひシアトルへと招いてくれるのだが、そのときがもしあれば、私はどんな旅人になれるだろうか…と思いながら、年末を京都で過ごす彼らに、日本でのよい年越しが待っているように祈っている。

蛍の思い出 [日々のキルト]

ステンドグラス作家菊池健一さんが他界されたお知らせを受け、ショックを受けた。
私はかつて銀座のデパートの画廊で彼とコラボレーションをしたこともあり、またこのマンションの一室の窓には、彼の作品(リュートを奏でる二人の楽人のステンドグラス)がはまっている。
いろいろな思い出があるけれども、私にとって特に忘れられないのは、友人の0さんと彼の千葉のアトリエを訪れたとき、彼に案内されて見た蛍のすばらしい乱舞の光景だ。暗い夜道を車でしばらく走ってから、暗い谷のような原っぱのようなところへたどりつき、そこで車のテールランプを点滅させる。と、たちまち蛍が群れをなして、私たちのまわりに集まってきて、私たちはみな蛍に全身まぶされた!といっても過言ではないくらい。あたり一面の蛍の乱舞には声もなく、ただ茫然と立っていただけのあの時のシーンは、まぶたの裏にやきついて消えない。おそらく一生消えることがないだろう。

アトリエを訪ねたときおみやげにもらった青いガラスも、蛍の記憶と連動する。
お会いしたことはなかったが、夫人にお電話して伺うと、栃木にアトリエを移してからは、大谷石を使った作品に力を入れておられた由。ネットをあけてみると、そこに美しい大谷石のランプをいくつも発見した。

ステンドグラス、石のランプ…そして蛍。
彼も生涯光を追い求めて生きた人なのだろうか。それにしてもあまりに早すぎる彼の死にことばがない。

エトルリアの世界展 [日々のキルト]

九段のイタリア文化会館へ「エトルリアの世界展」を見に行く。ずっと以前のことだが、ここにイタリア語を習いに通っていたことなどを思い出しながら、黄金色の銀杏並木の坂を上る。空気の匂いがふいにさわやかになり、雨が降った後なのかと思う。

私が、なぜエトルリア美術に興味をもったかといえば、以前ローマのヴィラ・ジュリア博物館で、数々の出土品やエトルリアの美術の魅力にひきつけられた経験があるからだ。とくに寄り添う王と王妃の像を載せた「夫婦の陶棺」はすばらしかった。いまから2800年以上も前に地中海地域に登場し、古代ローマ文化以前のBC2世紀頃まで、エトルリアの文明はイタリア半島の中部に広く栄えたという。それから忽然として歴史の闇に消えていったという謎に満ちたいきさつにも、私の心をひく何かがあるのだけれど。

今日の展覧会は小規模だが、私はとくにBC6世紀頃の「古代の戦士像」や「女性像」の美しさにひきつけられた。どこかジャコメッティを想わせるようなほっそりとした、繊細な気品ある美しさで見飽きない。ほかにもエトルリアに特徴的ないくつかの石像や、納骨容器、装飾品などあり、ついに思い切ってとても重そうなカタログまで買ってしまった。そのために、できたら後で寄りたかった上野の「プーシキン展」にまで足をのばすのをあきらめた。残念だったが、でもほんとうは一度に二つの展覧会は見ないほうがいいから、ちょうどよかったのかもしれない。

そういえば、かの秋山さと子さんも、ヴィラ・ジュリアのエトルリア博物館の「小さなものたち」がお好きで、ローマへ行くたびに必ず訪ねられた由。もし生きておられたら、この展覧会もきっとのぞきにいかれたのではないだろうか…などとふと思う。

<strong>D</strong>さんの夢 [日々のキルト]

紳士たちはポケットに手を入れ、立ち止まり、歩いてきた方向をじっとみつめている。何か落としたのかしら?彼らは悲嘆にくれているけれども何か秘密があるのかしら?

ポケットが山のようにテーブルに置かれている。ポケットの中に,裂かれた封筒の片端やら、折りたたんだ診断書が入っている。

つぶやき声が聞こえたので、顔を上げて見ると、黒いながいコートを着たヒゲのある男が
「私の致命傷・・・・」といって、藍色の空の方へ遠ざかっていった。

彼のポケットを開いてみると、きれいな宝石みたいなものがあった。懐かしさで心が揺さぶられるが、それが何なのかわからない。・・・・


(これはDさんから送られてきた夢の前半だ。まるで一枚のタブローをみているか、あるいは物語の一頁をよんでいるよう。今夜この続きを夢でみてみたい。)

トリエンナーレ [日々のキルト]

今日は前から行こうと思っていた横浜トリエンナーレ2005をやっと見に行く。午後から晴れたので、山下公園の銀杏が、黄金色に陽に映えてまぶしいくらい美しかった。散り敷いた金色の葉を踏んで歩くのは、ほんとにぜいたくな感じだ。
でもやっとたどりついたトリエンナーレ展はなんだか今ひとつさびしい感じ。いろんなアイデアや方法があって、美術現場の人たちは関心をそそられるかもしれないが、一般人の私がみると、どれも似たり寄ったりの感じがするのは何故か。アートとは精神的にもっとゼイタクなものではないか。工夫されたこまかい差異にまで気が廻らない私ではあるが、見慣れた感じがして、新鮮な驚きがあまりない。技術や媒体だけの新奇さでなく…何か人間力を感じさせるものが欲しいと思ったりした。
(もっともすべてを見られたわけでなく、一部見落としたものがあるので、大きなことはいえないが)。

こういうことは現代詩にも通じることだと思う。
と、これがLEE UFANを見たばかりの私の、トリエンナーレへの感想だった。

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