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しずかに流れるみどりの川 [日々のキルト]

 ユベール・マンガレリの『しずかに流れるみどりの川』を読んだ。『おわりの雪』の著者が
1999年に小説第一作として発表したものという。『おわりの雪』は少年と父親の寡黙な
関係が、一羽のトビの飼育をめぐって、ひそやかに展開する物語だ。雪原を犬と歩き
続ける少年の心理が、雪の一片のように、読後心に溶けていく、そんな読後感があった。
大きなドラマは起こらないのに、マンガレリの文体は読むものの内部に消えがたい印象
を残す。
この『しずかなに流れるみどりの川』も、少年がその父親との貧しい暮らしのなかで、二人
で追い求めるガラスびんの植物への夢とか、草のトンネルをたどりながら、少年がひとり
育てる夢想の世界とか、その低声による語り口で、同じように読者の胸に深い香りのア
ロマを残す作品だ。知らず知らず、私は少年と同じ草のトンネルを歩み、室内に斜めに
さしこむ光のなかで、百個のガラスびんをのぞき、教会でローソクを盗み、神様に一緒に
お詫びしたのかもしれない。どこにもある暮らしというもののもつ語られない哀しさ、少年
の素朴な優しさは、とまどいながらも、私の戸口をたたく雨か風のように思われる。

 『しずかに流れるみどりの川』  田久保麻理訳 (白水社)

樹の気持ち [日々のキルト]

この家は丘の上のマンションの8階なので、ベランダも地上よりはるか上にある。ベラン
ダから下を見ると、都会の中ながら、ちょっとした木々の茂みが青々としていて、緑の小さ
な森みたいだ。
ところで、今日、書斎のわきのベランダに置いていた鉢植えの通称「ジャックの豆の樹」に
油蝉が一匹とまってやかましく!鳴きたてているのを発見。蝉の声というのは近くで聞く
と、もう耳がおかしくなるくらいやかましい。耳を聾するとはこのことだと思う。
すぐ下にはあんなに豊かに木が茂っているのに、何もこんなにひょろひょろとした鉢植え
の若木にやってきて、縄張り宣言をしなくても…などと思うのだが、蝉の気持ちは今ひと
つ分からない。
何年か前、10センチばかりだった苗を買ってきておもしろがっていたら、たちまち野放図
に伸びて、いまや天井に梢がとどきかけ、何度も若枝を切ってしまったのに、樹はへこた
れない。それにしても蝉が止まったのは、初体験に違いない!私の耳にはジンジンうる
さいが、樹にとってはこれはどんなふうに聴こえるのだろう?波動が樹液を波立たせる
のかな…などと思う。蝉のとまる樹と、蝉のとまらない樹というのはあるのかしら、など。
いつかバルコニーに置いた鉢植えのかんきつ類の樹でアゲハチョウの卵が孵って、
羽化して飛び立つのを見送ったときも、私はやはりその樹に一目おいたものだった。
なにしろ樹はこういうことを淡々とやってのけて、知らんぷりして立っているのだから。

夢という、不思議なもの [日々のキルト]

夢について、いい文章を読んだ。作品社から出た「夢」というシリーズの高橋たか子の一
文です。

(私の場合、目が醒める時、夜の間に生きていたらしい生活について、妙に豊穣なものと
いう印象とともに目が醒めることは事実である。断片的な記憶が去っていくことがないよ
うにと、しっかり意識にピンで留めておき、それを反芻していると、それを含んでいる夢の
時間全体の豊穣さが、髣髴させられる。ああ、いい生活を送っていたな、と感じる。その
生活を具体的に知りようがないにもかかわらず、そういう感じが残るのである。良い夢の
場合はもちろんそうだが、悪い夢の場合にすら、現実の世界にはないような豊穣さが感
じられるのは、なぜだろう。豊穣さというのは、なまなましさ、一杯に充ちている命、緊密
さ、などと言い換えてもいい。)
 このさいごの行をよむだけで、私はこの人の作品をきちんと読んでみたくなる。

(ネルヴァルの「夢はもうひとつの生である」にたいして、私は「夢は唯一の生である」とい
う言葉を提出しよう。)

(じつに不思議なことだと思うのだが、原稿用紙をひろげて、スタンドを灯すと、白い紙の
上に、明かりの輪ができ、その小さな場所から、私は何処にもない世界にたちまち入っ
ていくのである。)

(私は、夜は、いわゆる夢のなかで生活し、昼間は、小説という形式をもった夢のなかで
生活しているといった次第なのだ。その両者は無関係どころではない。深いところで一
続きになっている。両者の間で違う点は、夜のほうの生活については意識的でないのに
反して、昼間のほうの生活については意識的だということだけである。…いったい何処か
ら、知らない素材ばかりがこれほど出てくるのか、自分でも気味が悪いほどである。もし
かしたら、夜の夢のなかで体験しているが、その体験が知りようもないままに私の頭の
なかに蓄積されている、そんな無意識の記憶から、私は素材を取っているのかもしれな
い。だが確かにそうなのかどうか、それを知りようもない。)

私は大庭みな子の作品が好きだが、彼女と高橋たか子が、親しい友人同士であり
二人でよくこんな話を交わしたという文章を何かで読んだことがある。
背後に豊穣な夢を負って生きる人々が多い世は、昼の世もまた陰影の深いものになる
ような気がする。そのような人々の出会う世の中はまた、含蓄の多い言葉が交わされる
世の中でもあるだろう。
ところで私は今夜どんな夢をみるのだろう。予想できないところが夢の魅力だけれど。

ウイキョウ [日々のキルト]

明日は台風が来るということで、バルコニーの鉢や、外に出してあった「ベンジャミン」や
「ジャックの豆の木」などを片付けたり、室内に入れたりする。
以前も書いたけど、花屋さんにもらった”グロキシニア”の鉢を見たら、いつのまにか新し
い蕾がいくつもついている! あまり世話をやかないで放っておいたのが、よかったの
かも。
また、バルコニーではウイキョウがどんどん増えつづけて、あちこちのプランターで1,5
メートルくらいに伸び、この夏もレモン色のレース状の花をいっぱいつけていた。(そのう
ちウイキョウの林になりそう)。今日はその熟した実を摘んで、バジルの葉と冷蔵庫の中
のローズヒップティーとをブレンドしてお茶にしてみた。キャンドルウオーマにのっけて、
ゆっくりゆっくり温めて。
そうしたら癖がなくておいしいお茶になった。ウイキョウの種はそのまま噛んでいても、
甘くて、香りがあり、おいしかった。そういえばインドへ行ったとき機内でフェンネルを配ら
れたことを思い出した。
ウイキョウは目にもいいと昔から信じられていたという。消化を助ける実力はほんとに
あるらしく物の本にもそう書いてある。
それにしてもいろんなハーブ類の鉢があるのに、あまり実用に供さず、もっぱら水をやり、
見ているだけなのだ。
ローズマリー、タイム、バジル(これはもっぱらトマトと一緒のサラダなどに愛用する)、
チャイブなどが折々に花を咲かせてくれるし、いろんな種類のセージもブルーの花を咲か
せてくれる。

カミナンテス [日々のキルト]

カミナンテス(旅人たちという意味)というフォルクローレのグループからCD[わが道づれ」が送られてきた。以前私が上福岡に住んでいた頃からの友人夫妻、高橋正樹さんと葉さんを中心にした5人のメンバーのグループだ。
あのころ、よくコンサートできいた曲、そればかりでなくある夜は我が家のリビングで、またある夕べは高橋家で、としばしばたのしませていただいたレパートリーの数々をまたこうしたかたちで耳にできるのは嬉しい。
ヌンカという曲は私がその頃つけた詞によって歌われていて、それにもびっくりしたし、懐かしくも思った。あれらの日々から、もう20年近くは経っていると思うのだが、それにしても若々しくロマンチックなご夫妻の歌声は変わらない。
     
             「空はどうして藤の花の上に
             冷たい雨をふらせるのだろう
             水はかよわい花を痛めつける
             まるで人生が私を痛めつけるように」

という高橋 葉さんの語りの入る「空はどうして泣いている」という曲を、今日はことさら懐かしく聴いた。
これからもフォルクローレへの尽きない夢を抱いて歌い続けてほしいと、カミナンテスの仲間へ心から声援を送る。

銅版画展 [日々のキルト]

Gallery元町で田代幸正さんの銅版画展をみる。田代さんの「野兎」という銅版画を私は一枚だけ持っている。
それはもう何年か前に出会って,ふしぎに心ひかれた作品だった。彼の絵には既視感と、ある懐かしさがあって、その背後に秘められた物語性を感じる。人が生きてそこで静かに呼吸している空間みたいなものが、私を誘う。その版画も、ひとりの少年が兎を抱いてこちらを見ている…ただそれだけなのだが。
それからもう一枚、傘をさした少年が大きな犬を連れて雨の中をあるいている小品。これはプレゼントされたもの。地に落ちて跳ね返る雨の感触、あたたかな動物の手触り…。

私は兎を抱く少年にひそかに名をつけていて、いつか物語のなかを歩かせてみたいなあ…と思っている。

ギャラリー元町は彼の絵を見るのにふさわしいスペースだった。彼はそのセピア色の光の底で、グレン・グールドのCDをかけ、鉱物やアンモナイトのことを話した。残暑の窓から入る斜めの光も、空間を涼しく異質なものに感じさせる。そういう時間はとてもすてきだ。

旧制高校 [日々のキルト]

60年も前の旧制松本高校の学生たちのインターハイや駅伝の記録をビデオで見ることができた。
亡兄の友人であったY氏から拝借したものだ。それは昭和21年10月の映像なのだが、若者たちはあの敗戦直後の貧しい食糧難の時代にも、なんとあっけらかんと、生き生きと、精一杯若さをたのしんでいることか!寮歌を歌い、ストームをし…。(そこは男ばかりの世界だが…。)
雨のふるフィルム越しに、かれらの生気あふれる姿を眺め、その後に過ぎた年月と、今の時代を思って複雑な気持ちになる。

誰もひとりでは立てないところ [日々のキルト]

今日はエルビス・プレスリーが他界した日。あれからもう28年も経つ。CDを聴いているけれど、
彼の歌声ははなぜいつまでも古びないのか…というより年毎に新しくなるのかが不思議。

彼の歌ったゴスペルのなかで、私がもっとも心にしみる曲、その詞を書いてみたい。 機会があったら
聴いてみてください。

            WHERE NO ONE STANDS ALONE             Once I stood in the night             With my head bowed low             In the darkness as black as could be             And my heart felt alone and I cried oh lord             Don’t hide your face from me             Like a king I may live in a palace so tall             With great riches to call my own             But I don’t know a thing             In this whole wide world             That’s worse than being alone             Hold my hand all the way,every hour every day             Come here to the great unknown              Take my hand let me stand             Where no one stands alone             Take my hand let me stand             Where no one stands alone                                          

万葉集 [日々のキルト]

鈴木ユリイカさんから「MAN’YO LUSTER」(万葉集の英訳)という本が送られてきた。
それぞれの歌ごとに美しいカラー写真の入った本で見ているだけでも愉しい。
英語で万葉集を読むことができるのは楽しみだ。リービ英雄その他による。

佐保河の小石ふみ渡りぬばたまの黒馬の来る夜は年にもあらぬか

(さほがわの こいしふみわたり ぬばたまの くろまのくるよは としにもあらぬか)
これは藤原大夫に大伴郎女のこたえた歌とのこと。
《佐保河の小石を踏み渡って宵闇の中をあなたの黒馬の来る夜は、年に一度で
もあってほしいものです》
私は黒馬というイメージにとらえられたみたいだ。

Would that, even a single night a year, your pitch‐black steed would come,    treading over the pebbles    in the Saho River

これを英訳で読むと、(私には)小石を蹴るひずめの音が聴こえてくる。
不意の連想…漱石の夢十夜のなかで、白い裸馬に乗ってまっしぐらに
駆けてくる女の図。黒馬と白馬、男と女はちがうけれども。

メイ・サートン [日々のキルト]

昨夜、メイ・サートンの、すてきな言葉をまた一つ見つけた。
これは、高橋茅香子さんの「英語となかよくなれる本」のなかで見つけた一節だ。メイ・サートンが八十歳の一年間を綴った『アンコール』という著書に記されているとのこと。

「もし私が四十歳で—彼は今四十歳なのだ—結婚していなかったら、絶対に彼に結婚してほしいと迫っただろう。彼が普通の男性とちがうのは、ロマンチックだということ……わたしたちはいろいろなことについて語りあった。幸せでいる義務、そして自分のまわりの世界つまり人間、植物、花、天候などを楽しむ義務を持ちながら、現代がかかえている苦しみや恐ろしさをできる限り意識していなければならない、と語りあった」

これは「あなたに似た人の書いたもの」という章のなかに引用されている。私はメイ・サートンの愛読者だが,この『アンコール』という著書はまだ読んでいなかった。このように共感する著者の文の中に、また別の作家のすてきな言葉を発見するのは二重の悦びでもある。

特にこのなかで、「幸せでいる義務」という言葉が心に刻まれた。これははっとするような印象的な言葉で、私はこれからも折につけ、この表現を思い出すことだろう。

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